見どころ

《スリップウェア鶏文鉢》 イギリス
18世紀後半 日本民藝館
  • 1

    民藝の歴史的な変化と
    社会の関係をたどります。

    民藝運動はどのような背景のなかで生まれ、変化してきたのでしょうか。関東大震災、鉄道網の発達と観光ブーム、戦争と国家、戦後の高度経済成長―民藝運動の歩みは「近代化」と表裏一体であり、社会の大きな節目と併走するように展開してきました。なぜ今、民藝が注目されるのかをひも解きます。

  • 2

    手を動かす柳宗悦
    ―そのデザイン・編集手法を分析します。

    宗教哲学者であり、文筆活動を主体として民藝運動を推しすすめた柳ですが、実はなかなかの画力の持ち主。集めた器物をスケッチし、書体(フォント)を作り、写真のトリミングや配置を決め、あるいは建物や製品の設計図を描き、大津絵などの絵画の表具をしつらえるなど、あらゆる「編集」作業に腕をふるいました。柳がさまざまなメディアを通して、自らの美的感覚をどのように示し、伝えたのか―その「手さばき」を解析します。

  • 3

    衣食住から景観保存まで

    ツイードの三つ揃いスーツ、蝶ネクタイに丸眼鏡、ワークウェアとしての作務衣―民藝の人々はみなスタイリッシュでお洒落でした。しゃぶしゃぶにカレー、地方のお土産菓子など、食文化にも民藝は関わっています。民家の特徴を取り入れた建築にウィンザーチェア、日本・朝鮮・西洋折衷のインテリアデザインは良く知られるところですが、鳥取砂丘の景観保存にも民藝が関わっていたこと、ご存じでしたか?

『月刊民藝』創刊号 1939年4月

民藝の樹

民藝運動の三つの柱と
ローカル・ネットワーク

全国を歩き、蒐集(しゅうしゅう)し、文章を書き、ものを作る―民藝運動を推進したのは、さまざまな職能と地縁をもつ人々のつながりでした。今回とりわけ注目するのは、「美術館」「出版」「流通」という三本柱を掲げた民藝のモダンな「編集」手法と、それぞれの地方の人・モノ・情報をつないで協働した民藝のローカルなネットワークです。古民藝の調査・蒐集・展示、雑誌の出版、新作民藝の製作からショップ経営まで、それぞれの地域に根ざした人々との協働に注目します。

ミュージアム

日本民藝館

古今東西の民藝品を調査・蒐集・展示。

完成まもない日本民藝館 1936年 写真提供:日本民藝館
  • 宗教哲学者

    柳宗悦 (1889-1961)

    東京生まれ。民藝運動の指導者として主に東京・駒場を拠点に活動。

  • 陶芸家

    河井寬次郎 (1890-1966)

    島根県安来町出身。
    京都市五条坂を拠点に活動。

  • 陶芸家

    濱田庄司 (1894-1978)

    神奈川県川崎市出身。
    栃木県益子を拠点に活動。

  • 陶芸家

    バーナード・リーチ (1887-1979)

    イギリス出身、香港生まれ。
    1909年に来日し、柳らと交流。

  • 染色家

    芹沢銈介 (1895-1984)

    静岡市出身。
    主に東京・静岡を拠点に活動。

生産と流通

たくみ工藝店

各地の新作民藝を販売するセレクトショップ

銀座たくみ(内観) 写真提供:鳥取民藝美術館
  • 耳鼻科医

    吉田璋也 (1898-1972)

    鳥取市出身。鳥取市と東京・西銀座に「たくみ工藝店」、戦後、鳥取市にしゃぶしゃぶ料理店「たくみ割烹店」を開店。鳥取を拠点に陶器や家具の新作民藝のプロデュースを手がけた。

出版

日本民藝協会

雑誌『工藝』『月刊民藝』などの機関誌を発行。
そのほか工芸に関する書籍の刊行。

  • 精神科医

    式場隆三郎 (1898-1965)

    新潟県中蒲原郡出身。
    民藝の機関誌の編集や数多くの文筆・出版を手がけた。

作品紹介

1章

「民藝」前夜
―あつめる、つなぐ

1910年代~1920年代初頭

柳宗悦が結婚後に居を構えた自然豊かな我孫子(千葉県)という場所は、『白樺』同人の志賀直哉、武者小路実篤が移り住み、生涯の友人となるバーナード・リーチも窯を築くなど、柳自身が「コロニー」と呼ぶ親密な芸術家村をはぐくんで、のちの民藝運動の揺籃の地となりました。『白樺』誌上での美術紹介、蒐集のはじまりと美術館建設の夢、それが縁となる友人との出会いと交流。人とモノが集まる「場」をつくることから民藝運動は始動しました。

プレゼント From ロダン。
本物のロダン彫刻がやってきた!

世界とつながりたい『白樺』同人は、ロダンと書簡で交流を試みます。すると、1911年末にロダンから三体の彫刻が届き、同人たちは興奮に包まれました。

オーギュスト・ロダン《ある小さき影》 1885年 大原美術館(白樺美術館より永久寄託)

ロダンが見たい!
運命を変えたお土産

彫刻家を志していた浅川伯教が、ロダンの彫刻を見るために柳邸を訪ねた際、土産に持参したのがこの朝鮮の壺でした。柳が陶磁器の美に開眼する契機となった品。

《染付秋草文面取壺》(瓢形瓶部分)朝鮮半島 18世紀前半 日本民藝館

2章

移動する身体
―「民藝」の発見

1910年代後半~1920年代

民藝運動を推進する力は「旅」にありました。大正から昭和初期にかけて、鉄道を中心とする交通網の発達とともに旅行ブームが起こりますが、柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎ら創設メンバーは、国内外を精力的に移動し、各地の民藝を発掘・蒐集していきます。柳の場合、朝鮮の文化との運命的な出会いがあり、その後に木喰仏と江戸期の民藝の調査が続きました。関東大震災の後、柳が京都に転居した時期とも重なり、まさに彼自身が「移動」することから「民藝」の発見の旅は始まりました。彼らの関心はヨーロッパの工芸運動にも向いていました。グローバルな工芸とモダン・デザインの潮流を参照しながら、日本の各地に眠る民藝を発見していく過程を、彼らの旅の軌跡とともに示します。

旅のきっかけは、木喰仏

1924年、朝鮮陶磁器を見るために、友人の浅川巧とともに訪れた山梨県甲府の旧家で、柳は木喰上人が彫った仏像に偶然出会います。その後数年間、柳は日本国中を巡り、木喰仏についての調査研究を行いました。

木喰五行 《地蔵菩薩像》 1801年 日本民藝館
新潟・南魚沼郡調査の折 如意輪観音菩薩像と 大月観音堂にて 1925年8月23日撮影 写真提供:日本民藝館

朝鮮の友へ。
ミュージアム構想のはじまり

1920年に朝鮮を旅行した際、柳は浅川巧の家で朝鮮陶磁に深く感動し、朝鮮民族美術館設立を構想。数年かけて彼らは資金を集め、工芸品を蒐集。1924年、その夢はソウル(京城)の景福宮内に実現します。下の写真は朝鮮民族美術館設立に先駆けて1922年に開催された「李朝陶磁器展覧会」。中央に立つのが柳宗悦、左端が浅川伯教。中央のテーブルに陳列された名品3点が本展で再び集結します。

李朝陶磁器展覧会 1922年10月5日~7日 ソウル(京城)・黄金町の朝鮮貴族会館にて 写真提供:日本民藝館
《染付辰砂蓮花文壺》 18世紀後半 朝鮮半島 大阪市立東洋陶磁美術館(安宅英一氏寄贈) 写真:六田知弘

3章

「民」なる趣味
―都市/郷土

1920年代~1930年代

初期民藝運動の周囲には、相互に関連しあう異なる趣味の世界が林立していました。日本の近代化の矛盾が露呈してきた大正末から昭和の初期にかけて、「都市」に対する「郷土」という概念の成立とともに、「民俗」「民家」「民具」「民芸」など地方の伝統的な生活文化を再評価する動きが、都市生活者の趣味という側面を含んで活発化します。民藝運動は、「上加茂民藝協團」を結成し、ギルド(制作者集団)による新作民芸の創造と生活の芸術化という理想を追い求めていきました。

ノスタルジックな玩具

杉山寿栄男『三春人形 趣味の図集』(1925年)が刊行されたことが示すとおり、大正から昭和にかけて、郷土玩具の趣味の世界で、福島県の三春人形に注目が集まりました。柳もその造形に魅了され、民藝館のコレクションに加えています。

《三春人形 橘弁慶》 江戸時代 19世紀前半 日本民藝館

蒐集から制作へ。
新しい民藝をつくる。

1927年、柳を指導者として木工の黒田辰秋、染織の青田五良、鈴木実、金工の青田七良らが京都で上加茂民藝協團を結成。本作は柳の家から借りて帰った朝鮮の箪笥を手本に制作されたもの。古民藝の蒐集から新作民藝の制作へ、民藝運動は活動を広げていきました。

黒田辰秋《拭漆欅真鍮金具三段棚》 1927年 河井寬次郎記念館

4章

民藝は「編集」する

1930年代~1940年代

柳宗悦は、美の本質に迫るためには、思想や嗜好や慣習を介在させずに「直下(じか)に」物を観ることが大切であると説きました。しかし、その一方で、柳は、雑誌の挿絵の機能や、作品図版のトリミングの効果、さらには展覧会における陳列の方法など、メディアを駆使して物の見方を示す、優れた「編集者」でもありました。この章では、民藝運動が雑誌や美術館を介して提示した「美の標準」の分析を通して、「柳の眼」を具体的に読み解いていきます。「民藝の樹」に図示されるように、出版、美術館、ショップという三本柱をいかに活用したかという観点から、民藝運動のメディア戦略を考察します。

雑誌『工藝』創刊。
書物そのものが工芸品

1931年、民藝運動の機関誌として創刊された雑誌『工藝』。豊富な写真図版と原稿によって民藝の美や思想を紹介。表紙は織物や漆絵、用紙には各地の手漉和紙が用いられ、装幀や小間絵は芹沢銈介や河井寬次郎など民藝の同人が担当。紙や布の特集では、実物が貼り込まれている号もあります。

雑誌『工藝』第1号‐第3号 1931年(型染・装幀 芹沢銈介)
写真提供:日本民藝館

屑繭が紳士の
お洒落アイテムに変身

吉田璋也は柳から送られた英国のホームスパンの毛糸のネクタイを手本に、ニニグリ糸(屑繭で紡いだ糸)を用いて新しいデザインを考案。農家の女性の副業として生産しました。吉田が開店した「たくみ工藝店」の人気商品で、類似品が出回るほどでした。

《ににぐりネクタイ》(デザイン指導:吉田璋也) 向国安処女会ほか(鳥取県) 1931年(デザイン) 鳥取民藝美術館 撮影:白岡晃

5章

ローカル/
ナショナル/
インターナショナル

1930年代~1940年代

江戸時代を中心にした「古作」の民藝品の蒐集からはじまった民藝運動は、1930年代から1940年代にかけて、地方において今なお流通している「現行品」の調査に精力を傾け、現代における手仕事の保存と育成と産業化という目標に向かって活動を展開します。1941年の「日本現在民藝品展」の際に柳宗悦が芹沢銈介に制作を依頼した《日本民藝地図(現在之日本民藝)》は、彼らの全国調査の成果を表現したものですが、各地の多様な民藝をひとつの日本に束ねる民藝運動の実践は、戦時下の国内外において、日本文化を表象する役割を担うようになります。戦時の社会的・文化的な背景を踏まえて、この時期の民藝運動が遺したものを再考します。

アイヌと内地の交流史を
物語る衣装

日本民藝館では、1941年に「アイヌ工藝文化展」が開催され、『工藝』106号、107号でアイヌ特集を組みました。アイヌの衣装には、内地との交易の跡を残すものがありますが、本作も和人から入手した木綿の古着を、切伏(アップリケ)を付して、アイヌ様式に仕立て直したもの。

《木綿切伏衣裳》 北海道アイヌ 19世紀 日本民藝館(前期展示)

民藝を地図化する。

六曲一双と四曲一隻からなる全長13メートルを超える日本地図に、民藝運動が各地で見出した工芸品の産地が記録されています。旧国名と現在の都府県の境が重ねられていること、北海道が描かれていないことに、民藝同人の地理観、歴史観がうかがえます。

芹沢銈介 《日本民藝地図(現在之日本民藝)》(部分) 1941年 日本民藝館
1950s-1970s

6章

戦後をデザインする
―衣食住から
景観保存まで

1950年代~1970年代

日本が敗戦から国際社会に復帰する過程で、民藝は再び国際文化交流の最前線に立つことになります。柳宗悦と濱田庄司は、二度目の欧米滞在中、民藝運動の新たな可能性のひとつとしてモダン・デザインに注目しましたし、デザイン界も民藝への関心を高めていきます。1958年の「フィンランド・デンマークのデザイン」展や、1950年代の柳宗悦の長男・宗理による日本の民窯との一連のコラボレーションによって、民藝からインダストリアル・デザインに展開する道筋が示されました。戦後の経済成長に伴う民藝ブーム、ライフスタイルの変化に合わせて衣食住をトータルに提案していくような民藝運動の拡張の動きもあり、それらは民家保存や景観保存といった領域にまで及びました。

民藝と北欧デザインの接点

上/1956年、スウェーデンの陶磁器デザイナー、ヴィルヘルム・コーゲはYMCA日本観光団の一員として来日した際、益子の濱田庄司の窯や日本民藝館を訪れています。写真は、現在、日本民藝館に7点所蔵されているコーゲ作品のひとつ。コーゲは濱田や河井の作品の他、日本の民藝品に関心を示し、土産に持ち帰っています。
下/1958年、白木屋で開催された「フィンランド・デンマークのデザイン」展は、柳宗理による監修。前書きには柳宗悦も文章を寄せています。

上/ヴィルヘルム・コーゲ《澱青釉碗》 スウェーデン 1950年代 日本民藝館
下/展覧会カタログ『 フィンランド・デンマークのデザイン』 日本民藝協会 1958年 東京国立近代美術館

上/ヴィルヘルム・コーゲ《澱青釉碗》 スウェーデン 1950年代 日本民藝館
下/展覧会カタログ『 フィンランド・デンマークのデザイン』 日本民藝協会 1958年 東京国立近代美術館

民藝×インダストリアル・デザイン
河井寬次郎と柳宗理

柳宗悦の長男である宗理が原型をデザインし、京都五条坂の河井寬次郎の窯で焼かれた黒土瓶。同じ規格の製品が作りやすい型成形によるものですが、ゆず肌の黒い釉薬の風合いに宗理は注目しました。手と機械、工芸品と工業製品をつなぐ試み。

柳宗理デザイン 《黒土瓶》 京都五条坂窯 1958年
柳工業デザイン研究会(金沢美術工芸大学寄託)

SHARE

このページをシェアする